織田信長の重臣であった明智光秀による織田信長への謀反で有名な「本能寺の変」。その真相は諸説あり謎に包まれてはいるが、今回のブログでは、信長と光秀の関係を「上司と部下」という枠組みで捉え考察してみたいと思う。
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独裁と革新のリーダー織田信長
先のブログでもテーマにしていた桶狭間の戦いをみても、揺るぎない意志と実行力、そして決断力があったのは間違いないといえるだろう。
またそれだけでなく、関税や特権を廃止し自由な商売の場を提供した「楽市楽座」は、信長であったからこその業績であり、先見の明とイノベーション力も持ち合わせていると想像できる。
そして信長の非情な面を象徴する出来事は、「比叡山の焼き討ち」だ。
当時政治的な権力を握っていた比叡山延暦寺の排除を迷うことなく実行する様は、勝利するため、権力誇示のためなら手段を問わない性格が現れている。つまり、結果・成果さえ出せればその過程は重要視しないということだ。
現代の視点で捉える信長のリーダー像
- リーダーとしての牽引力にはすぐれており目標を明確に示せる
- 現状に満足せず常に革新的なことを考えるカリスマ性をもっている
- 一方で独裁的な傾向があり結果がすべてという価値観であるがゆえに結果を出せない部下には圧力をかけ、いわゆるパワハラなどを横行させてしまう
思いやりのこころを持った知識人 明智光秀
光秀は、”略奪してなんぼ”の戦国時代に生きながらも、民衆への被害を最小限に抑えることに気を配っていたといわれている。
実際に、光秀の領地では農民や商人に対して厳しい税を課さず、むしろ安定した生活を保証しようと努めていたというのだ。このような姿勢からも、光秀は単なる武将ではなく、民を思いやる優れた行政官としての資質も持っていたといえるだろう。
また光秀は、「本能寺の変」で主君信長に謀反をおこしたことにより、裏切りものの悪い奴というイメージがあるが、実際はリスクを冷静に評価し、状況を判断する慎重な性格の持ち主だったと言われている。
そういった背景を鑑みると「本能寺の変」も決して衝動的な行動で起こしたわけではなく、その背後には信長との関係性における深い葛藤や苦悩の積み重なりがあった末の決断といえるだろう。
現代の視点で捉える光秀のリーダー像
・広い人脈と豊富な知識を活かした戦略マスター
・チームには思いやりと調和を重視する
・部下を尊重し、共感力にも優れている良き相談者
コミュニケーションの欠如が招いた悲劇
信長にとって光秀は、重要な役割を果たしていた重臣だったことは間違いない。しかし、重臣であったことで、光秀を過信しすぎていたのかもしれない。
それは、ふたりのエピソードから垣間見れる。
当時、光秀は領地の経営に困窮していたが、信長は十分な支援を行わなかったというのだ。
結果こそすべての信長ならではの安直な判断だともいえる。
しかし光秀からすると、こんなに忠誠を尽くしているにもかかわらず、自分が困っているときは何の手助けもしてくれないのかと思うのは当たり前だ。
このとき、信長は光秀と対話し困窮している事情を聞いていたのだろうか。光秀をフォローしながらも見守るという視点を持っていたのだろうか・・・
だれにも相談できない苦悩のなかで、信長への不満が徐々に積み重なっていったことが推測できる。
まとめ
複雑な政治的背景があったとはいえ、結果的に信長のワンマン、強権的なリーダーシップが、光秀を追い詰め「本能寺の変」を起こしてしまったと考えられる。
もし信長が、光秀にもっと対話を促し、ともに悩み、意見を尊重していたらどうなっていただろうか。
もしかすると、光秀は本能寺の変を起こすことなく、信長のもとでさらなる改革を成し遂げていたかもしれない。
(もちろん、信長の強権的なリーダーシップがあったからこそ、天下布武という志に向けて迅速な決断のもと一直線にスピード感をもってやってこれたということもあると思うが…)
現代の組織でも同じことが言える。リーダーが部下の意見や感情に耳を傾け、オープンなコミュニケーションを図ることが、組織の持続的な成長に不可欠だ。
信長と光秀の関係から学ぶべき教訓は、上司と部下の信頼関係がいかに重要かということだろう。その鍵は対話(コミュニケーション)にあると言える。
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