2023年の夏、『エンジョイベース・ボール』という従来の高校野球の価値観・イメージを覆すようなスローガンを掲げて強豪校に挑み、高校野球選手権大会(甲子園)の優勝を果たした慶応義塾高校野球部。
優勝以降、同校の監督を務める森林貴彦さんのリーダーシップが注目されています。本コラムでは、人の前向きな心理エネルギーを差す『心理的資本(Psychological Capital)』の概念を用いて、彼のリーダーシップを分析します。明日からのマネジメントを工夫するきっかけになれば嬉しく思います。
なお、あくまで本コラムは元高校球児の端くれである現32歳の筆者が、森林監督の書籍『Thinking Baseball ――慶應義塾高校が目指す”野球を通じて引き出す価値(2020年出版)』を読んだ所感を元に作成した記事であることをご認識ください。
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森林監督の「Hope/意志と経路」の力
心理的資本には4つの構成要素があります。頭文字を取ってHERO(ヒーロー)と呼ばれます。「ホープ(Hope:意志と経路の力)」「エフィカシー(Efficacy:自信と信頼の力)」「レジリエンス(Resilience:乗り越える力)」「オプティミズム(Optimism:柔軟な楽観力)」の4要素からなります。このうち本コラムではHopeに注目します。
Hopeは直訳すると”希望”ですが、「なんとかなる」という希望的観測ではなく、明確な意志や目的、在りたい姿(Will)と、その達成に至るための経路(Way)を柔軟に描くことができる力です。森林監督のリーダーシップをWillとWayで整理してみましょう。
森林監督のWill(意志や目的、在りたい姿)
高校野球をする意味とは何か?森林監督は、”高校野球のため”ではなく、”社会に出てからのため”であると位置づけています。高校を卒業してからの人生は長い。幸せとは何か?AI時代に育むべき価値観は何か?彼は高校野球の価値とは「困難を乗り越えた先の成長を経験する価値」「自分で考える楽しさを知る価値」「スポーツマンシップを身に付ける価値」であると考えています。
勝利至上主義で硬直的な高校野球では未来がない。つまり今の時代を幸せに生きることに繋がっていない。「高校野球の価値を変えたい」。だから自分たちは、「勝ち(勝利)にも価値(勝ち方)にもこだわる」。慶応義塾高校のスローガンである”エンジョイベースボール”とは、「より高いレベルの野球を楽しもう」という意味です。選手がより高いレベルの野球を経験する過程の中で、高校野球の価値を得ることができます。
彼は単に勝ちたいのではなく、勝利を目指す意味を明確に持っています。Willの高さ、深さがうかがえます。
森林監督のWillの根源は何か?
では、森林監督のWillの根源は何なのでしょうか?
視野の広さと、そのアップデート
彼はかつて大手通信社で3年間の社会人経験があります。現在は慶応義塾幼稚舎の教諭も務めています。高校野球の監督との二刀流です。監督業だけに限定されない視野の広さがあります。
さらに彼はEducationを「教育」ではなく「共育」という言葉で表現しています。「選手も育つ、監督も育つ。野球を通じて、共に育つ」という信念です。書籍を読んだり、他の種目やビジネスパーソンの方との情報交換を積極的に行っています。
自分で工夫することの楽しさを知った原体験
彼は選手だった学生時代に、当時の監督から「セカンド牽制へのサインを、自分たちで考えて見なさい」と言われたそうです。「自分たちで決めたほうが楽しいだろう」というのがその監督の意図でした。そして、メンバーと必死に議論を重ねて、試合で実践してアウトを取れた。自分で考えることの楽しさ、やりがいを体感できたことが、今の監督業に繋がっていると彼は述べています。
森林監督のWay(経路を柔軟に描く力)
Hopeの力を発揮するには、意志を強く持つだけでは不十分であり、経路を描き進む力が不可欠です。森林監督はWillの達成のために、どのような複数の柔軟なWayを描き、実践しているのか。書籍で紹介されている、筆者が特に印象的だったWayをいくつかご紹介します。
選手のWillを育てる「自己分析シート」
年に二回、慶應義塾野球部の選手は自己分析シートを書きます。書籍では「自己評価を正しくできる人間にしてあげることが目的」と書かれていますが、筆者は選手のWillの力を育てる観点からも非常に意義があると感じました。シートには、「人としての長所と短所(現実の自分)」「人としてどうなりたいか(理想の自分)」という項目があります。野球に限定しない項目であることに筆者は驚きました。まさに選手に対し在りたい姿(Will)を問うています。
なぜ選手のWillを考えてもらうこと必要があるのか、Hopeの考え方から解説しておきます。チームが目指すミッション=そのまま選手個人のWillではありません。森林監督が自身の経験や価値観からWilを形成しているように、選手も同様にそれぞれの経験や価値観があり、Willがあります。Willを言語化し、チームのミッションと自分のWillとの繋がりや接点を見出すことができれば、「チームに貢献することで、自分のWillの達成にも寄与する」と認識できます。認識が変われば、例えば日々の練習についても、やらされるものではなく、主体的に取り組むことができるし、自ら創意工夫しようと意識を持つ(つまりHopeの力を発揮する)ことができます。
選手の多様なWayを引き出している
リーダーがいくら経験豊富で優秀であったとしても、人一人が思いつくWayの範囲は限られます。Hopeが高いリーダーは目標達成へメンバーのWayを活かします。
森林監督はあくまで監督と選手はフラットな関係であると捉えています。旧来の高校野球にありがちな一方的な伝達・命令ではなく、双方向型のスタイルを目指しています。そのために、例えば選手や学生コーチには監督ではなく、“森林さん”と呼ばせています。選手とのコミュニケーションでは、コーチングの手法を用いて選手なりの答えを引き出す対話をしています。グラウンドでは落ち着いた口調で選手全員に発信できるよう、あえて拡声器を使っています。これらはWayの一例に過ぎません。
実際、選手から多様なWayが生まれています。具体例をいくつか紹介します。選手だけでミーティングをしたいとキャプテンから発案があったというエピソードがありました。怪我で長期間試合に出れない選手が、自らの発案でセイバーメトリクスという野球の統計学を取り入れることを提案してきたというエピソードもあり、これには森林監督も感動したそうです。2023年夏の甲子園では、慶応義塾高校でパフォーマンス低下を防ぐために日焼け止めを塗っている選手がいたことが話題になっていましたね。
伝統に固執しない。Willへの一貫性をもったWay
森林監督は、高校野球の常識ではなく社会の常識を伝えるというWillを徹底しています。例えば、「ちわ!した!」という、野球部特有の掛け声はしない。理由は、社会人になってそれはしないから。丁寧に挨拶すればいい。坊主を一切強制しない。理由は、それは高校野球の常識になっているが社会の非常識だから。ただし、坊主がダメではなく、したい人はしていい。何も考えず、ただ「昔からそうだから」と思考停止して坊主にするのはダメ。もちろん、野球のプレーに悪影響をおよぼす髪型はNG。
挨拶の例にしても、髪型の例にしても、彼のWillやチームミッションと照らし合わせるとすべて納得できるものです。
さいごに~リーダーがHopeの力を発揮するために
いかがでしたか?慶応義塾高校のスローガンである”エンジョイベースボール”という言葉が、「楽しい野球」という表面的な意味合いで浸透してしまっている感がありますが、森林監督のHopeを理解すると、消して単なる「楽」や「甘さ」や、「勝ち負けは拘らない」という意味では無いことが伝わるかと思います。
森林監督はこのようにも述べています。
自分の考えがない人は、他人もきっと考えていないという思考に陥りがちです。「この子たち、そんなことを考えているわけがないんですよ。言っても無駄なんです」というような発言をする指導者には、この傾向が強く出ます。
「自分が高校生のときは、意見をもつなんていうことはなかった。だから、いまの選手も考えや意見をもつはずがない」と思い込み、練習メニューを独断で決め、半ば強制的にやらせて、それが勝利のための近道だと信じ込んでいるのです。(引用:Thinking Baseball ――慶應義塾高校が目指す”野球を通じて引き出す価値/P22)
リーダーとしては、むしろ従来の高校野球の監督像のように強い指示命令で選手に従ってもらうほうがある意味で楽かも知れません。短期的には成果が出るかも知れません。しかしそうではなく、森林監督のような強いHopeの力を持ってリーダーシップを発揮していくことが、今の時代には必要です。
- 会社から言われた目標をこなすだけで、自分のWillを考えることを忘れていませんか?
- 自分のWillをメンバーに積極的に伝えていますか?
- メンバーのWillを知っていますか?Willを引き出す支援をしていますか?
- 自分が思うWayを押し付けていませんか?メンバーのWayを活かせていますか?
- チームのWayはWillに沿うものになっていますか?
本コラムがリーダーシップについて考え、明日からのマネジメントを工夫するきっかけになれば嬉しく思います。